文章。

ものを書くというのは自分自身と向き合うが故に、本音が露呈してしまう危険性をはらんでいるのでは以前折に触れた通りである。
その認識は一般的にも普及しているようで、例えば「私は鬱だ」と誰かが日記に書いたとすればそれを読んだ『読者』達は「あの人は鬱病なのか」と確認するだろうし、また別の或る人達は「こんな事日記に書いちゃって、こいつ鬱病気取ってやがる」と嘲るかのどちらではないだろうか。だがこの両者ともに日記の『書き手』が誠実に日記を書いているという前提で話をしている。

もし日記の書き手がろくろく考えもせず、今日は白を黒と、明日は赤を黒と書き出してそれをいちいち真に受けていたらどうなるだろうか。書き手は別段何も意図していないのにその文章が「誠実である」と思い込んで読んでしまう危険性。

だがそれらを踏まえた上で、僕は昨夜ある人達と話をしていた。内容というのは「椎名林檎を崇拝している人間は日記を読めばいとも簡単にそうと知れる」というもの。
例えば、旧仮名遣いや昔の言葉を多用する、だとか女性の事を雌と表現してみたりするだとかあとは諸々。だがそれより何よりも彼女達には行間から滲み出る『それっぽさ』がついてまわる。「何だかそれ臭えな」と思うとそうだったりする。的中率が高いわけでもないけれどそんな女性の文章を比較的多く目にしてきたのも事実。

で、誤解を恐れずに言おう。僕はそういう文章を書く人間、書いてしまえる人間、突き詰めればそんな人間が書いた文章に対して「何だかなぁ」という感情を隠せない。世の中には日記だけで惹き付けられる人間がいるのに対し(文章の書き方だけではなく、その内容が示すその人物の思想面にも魅力を感じるのは大前提だけれど)、何故連中(前述の例と対比するのであればこういう日記を書けてしまう人間の文章を面白いと思った事が一度もない)はそうも他人の模倣(無意識、無自覚で他人から見たらそうとしか見えないものほど痛烈なものはない)にはしるのか。

誓っていうが僕は椎名林檎が嫌いではない。むしろ愛聴する部類に入るだろう。ただファンの方々ならご存知であろう彼女の『自己演出』はどうも感性にあわないのか、はじめこそ面白がってはいたけれども最近はやはり「何だかなぁ」感が否めない。自己表現者たるもの、創作者のキャラクターまで創りこんで当然、というのはああいうバンドをやっている以上共感はできる。しかして、僕にはあわない。
それだけの話っちゃそれだけの話なのだが、おっといけない話が逸れた。
椎名林檎の感性が好きで、椎名林檎の全てが好きで、椎名林檎に影響を受けて、椎名林檎に刺激されて、等出発点は多々あるだろう。だがいずれにせよ僕はそれがどうも癪に障るのだ。自分を売り物にする手段ならばともかく、何だか、ねえ。

さてここを訪れた人達の中に賢明な方がいれば、今日のこの長文が文末の結論を裏付けようとしているように見せかけるためのゴタクだと感づいたのではないだろうか。そしてそのゴタクに取り立てて中身がない事も。そしてこう書いてしまう事でどういった印象を与えようとしているかも。おっと失礼、気を悪くしないで頂きたい。
僕はただ単純に自分のブログで書きたかっただけなのだ。
「椎名林檎を気取る女の文章をもし今後読む事になろうもんなら、そん時は大笑いさせて貰おう」と。

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