文章表現に関する考察。

恋愛と恋愛をしている自分についてクドクドと書くのはあまり好ましい事ではないだろう。
書く側は書き終えた後に迷いと後悔が生じるし、読む側も大して興味がないのに読み出した手前、最後まで読まないと気持ちが悪いと読みきってしまう。そしてそこに生まれるテンション差。そここそが一番気持ちが悪い上に、何だか恋愛の終わりの本質を抉り取って見せ付けられているようで具合が悪い。
書くのが好ましい事ではない、と思っている以上あまり読みもしない。恋愛について書き綴ってメソメソ悩んでいいのは高校生までだろう。だけども最近流行っているのだろうか、ネット上を徘徊していると日記なのか詩なのか判断がつかないような文章を書いている人が多くいる。勿論個人の範疇でやっているわけであって誰にも迷惑をかけていないだろうし、不愉快になる人もそういないだろう。
僕はと言えば一瞬の気まずさと気恥ずかしさを感じるばかりで他は別に感慨も感じない。

冷静に考えるとああいう行為、実は『公開している』という前提が大事なのではないだろうか。「誰かが目にする」かもしれない状況下で「私的」な事を書き綴っている。だが実際はああいった文章は恐らく自分自身に向けられている。僕もよくやるのだが「書いてスッキリする」類の文章だろう。読み返すかどうかもわかりはしないが、恐らく書いて感情や情念を吐き出しているのだろう。
ならばああいう文章こそが真に迫った『日記』と言えるのではないだろうか。
世の中には実に色々な日記が存在するし、存在し得るのだろう。
ここ最近は前述の『椎名林檎風日記』であったり、今日の『恋愛ポエム日記』であったり実に色々な方法論について自分なりに検討してみた。こうして物を書く事の方法論に拘って文章を読んでみると、文章を書くという行為、その中身よりも既に方法の段階で我々はある程度『表現』してしまっているのではないだろうか。

素敵な人間は素敵な文章を書き、清清しい人間は清清しい行間を表現するだろう。
繊細な人間は繊細な言葉を遣い、聡明な人間は語謂が豊富だろう。
攻撃的な人間は文中で誰かを批判するだろうし、保守的な人間は読み手を意識し過ぎてありたいていな文章しか書かないだろう。
自己顕示欲の強い人間は更新頻度も物凄いだろうし、自分の殻に閉じこもる人間は曖昧な表現や散文的表現で自分を出そうとしないだろう。
痛々しい人間は痛々しい事ばかり書くし、愚かな人間はプライドもへったくれもないような文章を書き殴る。

言い過ぎだろうか?方法論から人となりを判じるのは軽率か?
だが、人間性が文章を書かせるのであれば文章というものの終着駅はきっとそういう所にあるのではないだろうか。終着駅から始発駅を見る行為は愚行かもしれないけれども、始発駅から終着駅を楽しみに列車に揺られるのはそれなりに楽しめるはずだ。

願わくば、今後はそういう風にこのブログを読んでみて頂きたい。

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