雑感

2019_04_15_001
写真は先日少し遠出して気になってたリサイクルショップへエフェクターを買いに行った時の僕。店の前にて。

今日は娘がお世話になる保育園の内覧会。
娘がお世話になる保育園はそれまで在った幼稚園に新設される保育施設なのであった。保育園部分は内部で幼稚園と通じているものの、新築だけあって滅茶苦茶綺麗だった。園側と保護者のやりとりもアプリで行うらしい。連絡帳、みたいなのがあるかと思っていたのだが、あれはどうやら保護者側の負担があまりに大きいらしくそこを慮っての配慮の結果のようだ。
行き届いたところで娘を預かって貰えるようで安心である。現場を見た、というのは今後何かと娘の生活をイメージしやすくなるであろうからしてその経験はプラスに働くであろうという実感がある。
何が驚いたって保育園で働いている顔ぶれの中にライブハウスで当たり前のように会っていた人の顔があった事だ。向こうは名簿で察していたそうだけれども、いやはや世間は狭い。

で、その人と出会った当時の事を思い出して随分と生活が変わったんだなあと実感した。結婚しているし父親だし仕事も違う。
まあそういう変化は当たり前にあるとしても、一見変わっていないようでその実滅茶苦茶変わったのが表現活動だ。その時やっていたバンドをもうやっていない、とかそういう事ではなく、向き合い方が変わった事を痛感している。
幾つかのバンドに所属して練習を日々行って平日休日問わず様々な場所で演奏をして時には車中泊の泊りがけで遠征して見知らぬ人達の前で演奏して、という日々は確かにエキサイティングであったし楽器を触る時間やバンドに携わる時間も今より長かったのは明らかであるが、不思議と今の生活、日によっては楽器を触らずに一日を終え、練習やライブ、演奏は週末に集中し遠征も数ヶ月に一度あるかないかの今現在の生活の方が表現活動、というか音楽には向き合っている気がしているのだ。
音楽、というと幅が広過ぎるのかもしれない。自分自身の内側から出てくる音楽、と言った方が正確だろうか。

少し前の僕の音楽のアウトプットの仕方というのは人が作った曲だったり一緒に作った曲に演奏をぶつけてそれが自分自身の表現である、という風に捉えていた、定義していたのだが今現在はもっとパーソナルなものになっている、自分自身の表現としての音楽が。それを人にぶつけて人と作った音楽になる、というイメージ。
傍から見れば何一つ変わっちゃいないのだろうけれども、自分自身が人(この場合それは聴く人は勿論一緒に演奏する人も含む)に対して発する音楽に対してより自覚的になったというか、何であれば責任の所在もより自分と距離が近しくなったという感じだ。
これは即興演奏を以前よりするようになったからだろうか。
「決まっている」(この場合テンポとか小節数とか構成とか音符とか、兎に角何を演奏するか予め決まっている、という事である)曲を「決まっている」ように演奏していた頃と比べればそりゃあ「決まっていない」曲を「決定付ける」ように、或いは「もっと解き放つように」演奏するという行為はよりどんどんと個の中に潜り込んでいく瞬間があるに違いなかろう。

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