『出汁巻玉子』

玉子焼きは幼年期の記憶、様々な思い出を呼び起こすいわば『切ない』食べ物である。

玉子焼きを食べると幼い頃に家族で出かけハイキング、友達とワイワイ楽しんだ遠足、好きなあの娘をチラチラ気にして仲間と飯をかきこんだ中学校の昼食時間、他様々な記憶が脳裏をよぎるのである。

ああ、あの頃、一日が今より長く、小さな学区が冒険の宝庫で、ちょっとした事に感動し、そして自分の未来は可能性に満ちていたと信じて疑わなかったあの頃はもう二度と帰ってこない。春は何かが始まる予感にワクワクし、夏は瑞々しい思いと(そして筆者が忘れ難いのは『あの』市民プールの空気と光景だ)照りつける太陽の下大いに遊び、秋は叙情的な思いになり文化的に過ごす。そして冬は雪がまだ降らぬかまだ振らぬかと待ちわびて、一年の終わりを感じていたものである。
兎も角、そんな少年時代を玉子焼きは想起させる。玉子焼きは少年時代に密着し、決してカツや唐揚等のメインディッシュには適わねども、我々のお弁当のかけがえのない一要因であったのである。
家庭によって味の違う玉子焼き。貴方は甘い派だろうか、それとも塩っぱい派であろうか?

母の出汁巻玉子には、シーチキンが入っていた。
数年後そのポジションは海苔にとってかわられ、最終的には葱に落ち着いたようである。

元々舟橋家の玉子焼きは甘い味付けとは逆のベクトルに向かっており、それ故の素材チョイスである事は想像に難くない。シーチキンの旨味、葱の辛味、海苔の奥深さが出汁巻き玉子に一定の風味を加えていた。

そこで今回のチャレンジ!クッキングである。
息子は愚かにも母の出汁巻き玉子に挑戦を試みたのである。

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根本的に、まず「巻けて」いない。
ただの玉子焼きである。

結果から言えば、母の出汁巻玉子への挑戦は失敗に終わった。料理はひとえに味、見た目や盛り付けは二の次であるというのは『漢の料理』を標榜する同好の士や調理に失敗した人間の口からよく聞かれる発言であるが、今回の僕がそう嘯いたのは紛れもなく後者の理由によってであり、出汁巻玉子が出汁巻玉子であるための重要な要素、すなわり『巻き』が欠如している。
アイデンティティの崩壊、等と気取って言ってみたところで所詮はただの失敗。

思うに献立色々つゆを6倍に薄めて入れる際、それらをカップ一杯分入れたのがいけなかったのだろう。
玉子を溶き、具を入れたタネは一気に水っぽくなってしまった。玉子をもう一つ追加したものの、果たしてこれが本当に料理として形を成すのか実に不安であった。

それでもどうにか焼きあがって食べてみると味は悪くない。少しばかり味が濃いけれども、まあご愛嬌。
つくづく、母の料理は偉大である。

『出汁巻玉子』の覚書

・玉子を割って、とく。

・葱をみじん切りにし、玉子に入れる。

・さらに干し海老を入れる。

・献立色々つゆを6倍に薄めて入れる。ほんの少し、ほんの少しで良い。

・油をしいて温まったフライパンにそれらを入れる。

・焼き上げる際には『巻く』事!

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