好き勝手

有難い事にここ最近は様々なジャンルのお誘い(格好良く言えばオファー、という奴だ)を頂く事が多くなってきた。
この場合の様々なジャンル、には二つの意味がある。音楽の中での様々な「ジャンル」という意味と様々な表現「ジャンル」という意味だ。ジャンルジャンル連発してたら自分がとても滑稽に思えてきたぞ、っと。

音楽のお誘いだけでも随分と良い意味で”とっ散らかった”お誘いを頂けるようになった。
日々の活動についてはこのブログに書きつけているので今後に控えているものを思い浮かべながら書いてみても「ベースを弾いて下さい」から「音源制作に参加して下さい」まで色々と楽しそうな体験が出来そうなものばかりで、中身も具体的な所謂ベースラインだったりノイズとアンビエントみたいな抽象的なものまで幅広い。そのどれもが「僕」が「僕」として音楽表現をして欲しいというもので、例えとしては正確さに欠けるかもしれないが自分の中の引き出しのあっちを開けて次はこっちを開けて、というように時には自分自身でも意識しなかったような自分の側面を気付かされたりもするような、そんなお誘いばかりだ。
音楽での表現の楽しみの一つに自己の研摩を見出している身からすると「挑戦させてくれる」機会は有難い事この上ない。
「ベーシスト」であると同時に「僕」という演奏家を求めて誘ってくれている、そんなお誘いを受ける度に思うのは一ベースギター奏者としては随分と恵まれた認識のされ方をしているなという事だ。

同時に「僕は相当に恵まれた表現活動ライフを送る事が出来ているな」と思うのが、頂くお誘いが所謂音楽領域だけではない事だ。
包み隠さずに書くのであれば「役者をやりませんか」というお誘いも以前より増えた。
以前は極々一部の、極めて親密な「友人」という表現が適切な人間や僕の存在を面白がる人から作品内のアクセント的に「お前は持ち味をそのまま出せば良いから」という事で声をかけて貰って恐れ多くも舞台に立ったりしていたわけなのだけれども、その経験に味をしめて今度は自分で作ったり、或いは誘われるままにやっていたら気が付けば定期的に所謂「演劇」に於ける活動も少なくはなくなってきている。一年に一回とかだったのが半年に一回、レベルの増え方だとしてもそれは演劇作品の制作スパンに於いては十分に誘われちゃっているのではないか、と僕は思うのだよ。

こんな具合に今現在自分の活動と生活のバランスというのは理想的な一つの形として成立しているのだけれども、それを実感する度に、ごめん言い過ぎた、実感する3回に1回くらいは思い返すのが数年前に人から言われたある言葉だ。
「好き勝手やっていたら何者にもなれないよ」
いや、
「好き勝手やっていたら何もモノにならないよ」
だったか。
そのどちらの意味も込められていたのかもしれない。

その時はハッとしたしグサリとやられた感覚もあったものだけれども、でも今思えばあの言葉を受け取る事が出来て本当に良かったと思っている。その言葉の通りになるかそうでもないのか今現在の僕にはわかりはしないけれども(今まで一度だって何者かになった事なんてないともいえるし何かモノにしたとも思ってない。果たして死ぬまでにそういうのが、出来るのやら!)、でもまあ一つの目標としてこの言葉が常に頭のどこかにあるというのは良い事だと感じているからだ。
自分は「何者」であり「何をモノにしたい」のか。日々を営みものを作りものを人に発信する人間としては常に考え続けなければならないテーマである。
好き勝手やった結果「何者」にもなれなかったり「何もモノ」にならなかったとしてもまあ、好き勝手やったんだから別に良いわい。
好き勝手やった結果「何者」かになれたり「何かモノ」になったとするのであればそれは儲けモン。
これくらい気楽に考えていけば良い。何かを得たくて行動するのではなく、行動のためには目的を選ばないのが今現在の自分だからだ。
そして絶対に忘れてはいけないのが、ある程度年齢を重ねて「ああ、やったなあ」と自分を鑑みる際、何者になれたのか、何をモノにしたのか、それを判断するのは僕自身であるという事。
あくまでポップ、ポップが大好きな僕は他人からの評価を度外視する、ではなく他人からの評価よりも自分の評価を信じたい、を第一に皆を楽しませる事をやっていきたい。
人の意見に耳を貸す前に、まず自分が面白いと思うものを。
通読して感銘を受けた映画監督の自伝に欠いてあった考え方である。

たまにはこういう文章も書いておかないと後々読み返して「馬鹿な事言ってるなあ」とか「おお、こんな真面目に考えていたのか」と振り返る楽しみが減っちゃうからね。

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