孤独部『大学生』


15日、16日と千種文化小劇場にて行われた孤独部 第散解(これは誤表記ではない)公演『大学生』にてベースギターを弾いてきた。
というわけでそれについて書いておく。改めて明言するまでもない事かと思いますが、今回の記述に関してはあくまで僕目線だったり僕の思った事だったりがメインになってくるかと思います。作、演出がどう思っていたか、とか役者目線の面白い話はそのうちきっと、皆書くかと思うのでそちらを参照して下さい。
では参る。

この公演自体に関わる事になったのはかなり初期の段階で、その段階では演奏する事になるのかならないのか未定の状態だった。
実際、演奏が決まったのは本番までひと月をきった頃だったと思う(なのでこの公演に関するチラシでは舟橋はまさかの”演出補佐”という表記で掲載されている。かしやま君は何度か否定したけれども僕がそれっぽい働きをしたのは稽古中にストップウォッチを一度押した事だけだった、と断言出来よう)のだが、公演当日の仕事の都合をどうにかする事、そしてそれに伴った小屋入り以降の強引なタイムスケジュール以外は特に苦労する事(この場合は負担を感じる事、の意)もなかったように思う。
かしやま君の演奏に対する要求っていうのは物凄く明確で、勿論それはかしやま君の場合は二転三転するのだけれども(どんどん変えていくのが彼だ。それが良い事か悪い事なのか演劇制作という範疇内ではわからないけれども、少なくとも僕には自然な事のようにも思える)、根っこの部分は変わらなかったので終始、自分がこの演奏には適任だという自負を持ったまま本番に臨む事が出来た。演奏家はこの自負があるかないかだけで、いざその演奏に臨む時に発揮される想像力と演奏の力強さが大きく変わってくると思う。そういった意味では僕は何なら誇張でなく「僕の知る限り周りに僕以上に適任な演奏者はいないのではないか」位まで思いあがっていやがったので、3ステージ分の演奏を毎回健やかかつ強靭な気持ちで迎える事が出来た。
そういった意味ではこういう時の瞬間的な自負は、例えそれがメガロマニアックなものであろうとも継続的でなければ歓迎する事が出来る。

シーンが大きく動く、そしてこの作品にて唯一効果らしい効果が入る部分で僕の演奏はこの作品中唯一の「音」として響いたのであった。BGMとしてはいささか主張し過ぎるくらいの存在感、ボリュームで。
はじめはクリーントーン、ハーモニクスやスライド、超高音を発する特殊奏法等で不穏な雰囲気を志しつつ、ここぞというタイミングでファズをオンにし、フィードバックまみれのファズベースをチョーキング等を混ぜながら唸らせる。
普段バンドアンサンブルで意図している演奏が絵の具を塗られる事を意識しての線描写なら、今回は思いのままに絵筆を使っての一筆書きのようなつもりだった。
本作品で僕が請け負ったのはシーンを彩る音楽ではなく、作品中に於ける一つの「事象」としての演奏。そういう種類のものだったので、演奏する際の発想も普段と違ってストーリーに対してどの角度からぶつけていくか、みたいな発想で臨んだ。これってなかなかバンドの演奏ではない事なので面白い。それだけで面白い。まあ、尤もこれも言い方を少し変えるだけで物凄く音楽的なもので、要は自分以外のアンサンブルにどう自分の演奏をぶつけるかって事とほとんど同じである。
僕のために音響チームはスピーカーを劇場常設のものから増設してくれ、各スピーカーのバランスもしっかりととってくれた。音が出る、という事の有難味を感じざるを得ない時間だった。

結局3ステージとも違ったシチュエーションで演奏する事となり、一度として同じ演奏はしなかったと思う。
悪い演奏等はただの一度もなかった。毎回良い集中力で臨めたし、気持ちをのせる事が出来たと感じている。勿論まだまだ精進しなければならないし、白状すると、むしろこの公演全体での反省は第一声「悔しかった」になってしまうのだが。やっぱり何かを伝える、しかも言語外でとなると難しいものですネ。だからこそ挑戦し甲斐がある。
しかし一人の演奏家としても、また稽古や小屋入りを通じて演劇作品を作る上でも沢山収穫があったのも事実。

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