「刺激」について。

何かを表現してそれを発表する人間が時折使う表現に「インプット」というのがある。
楽器を弾く人間が「インプット」と口にする際、半分くらいは楽器(というか機器)用語としてのそれを指し示しているとは思うのだが、今日僕が書くのはそれとは違う方の「インプット」についてだ。

「インプット」。
刺激、と言って良いと思う。
僕の最も身近な表現活動に身を置く人間としてバンドマンという業種が存在するのだけれども(僕も僭越ながらその業種に身を置いている、と自認している)、彼らは時に言う。
「最近インプットがなかったので~」
「良いインプットを受けての活動っていうのは~」
要するに素敵な本や映画やそれこそ音楽に刺激を受けて、彼ら自身も自身のクリエイティビティを発揮する事があったりなかったりするというそういう事だ。当たり前だ、バンドマンだって人間だ。
でも愚かな僕は一時期それを公言するのも憚られた時期があった。音楽から受けた刺激を音楽で表現するっていうのはともすれば「パクッた」っていう勘違いを何なら自分自身にさえ与えてしまう可能性がある(今はパクる、っていうのにも考え方は変化してきた。そりゃそうだよ、生きてんだもん)。だからこそ僕はそれを公言する事に抵抗を示したし、自分自身がそういう音楽製作の中で流れ作業を行うベルトコンベアーの中の一機械のような役割しか果たさない(何かに刺激を受けて、それをきっかけにアウトプットするっていうのはそういう事だ、とさえ思っていたのだからね!笑ってくれて結構)のは真っ平御免だ、とそう思っていた。
僕自身の僕の中から出てくる何かではないと、それは僕の想像力とは言えないのではないかと真剣に考えていた時期があったのだ。

この論理を突き詰めるのであれば日本語を、ベースギターを、市販されている楽器を使って既存の場所で演奏する事自体が既にクリエイティブではないはずなのだが今よりももっと若かった僕はそれにさえ気づかなかった。
今は素直に「キング・クリムゾンの激しい奴が大好きでああいう風になりたいと4日に一度は思う」とか「54-71を聴いた直後に気分が高揚したままベースギターを弾いて、触発されたリフをバンドの練習に持って行った事がある」とか「あの曲のあのフレーズにファズがかかっているのはThe Beatlesの”Think fo yourself”がやりたかったからだ」とかそんな風に、はっきりと言える。これも一つの音楽の楽しみ方だし、刺激を受けてそれを形にして出すまでの間に人という要素が入っていれば、それはその人の表現であるという事に気付いたからだ。
誰もがポール・マッカートニーのベースを弾いて自分もベースにファズをかけてやろうと思うわけではない。方法論に限定して、極端な話を持ち出した場合、ではあるが。
要するに一番乱暴な話としてはそういう話。

で、「インプット」。
僕は色々な本や映画や音楽から刺激を受けてそれらを「インプット」としているけれども、最近は「人」がインプットである。
「僕は周りの素敵な人間達に支えられてバンド活動を続けて、彼らから刺激を受けて音楽をクリエイトしています」とかそういう属性の発言ではない、これは。純粋に彼らが刺激、であるという事である。
友人に対する感情や友情はひとまず置いておいて、彼らが成す事、彼らの行動、彼らの発言に対して自分がどう感じるか。そして感じた内容について深く吟味する。それはそれは深く吟味する。愉快だろうが不快だろうが、とりあえず自分がそれについてどう感じてどう考えたか、それを突き詰めてみる。
こういう作業を日頃からやっている。
その結果が僕の思想や信念や感性の叩き台になっているかはわからないけれど、でも僕を構成しているのは間違いがないだろう。勿論、感情がないわけではない。自分の感情に向き合うのも、同時にか或いは吟味する前にやっていたりする。

結局、一番面白いのは自分を含めた人間だったりするんじゃあないのかな。
面白い人間に出会うと僕は本当に興奮する。あの興奮っていうのは新しい楽器を始めた時のそれと似ているのかもしれない。
バンドをやっていると面白い人と出会う機会が多い。で、それを刺激にまた活動を続けるっていう良いサイクルに気づくためにも、自分にとっての一番の「インプット」に気がつけて良かったなあと思う。

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