こういう日記を書いてる間は僕は馬鹿のままなのかもしれない。

仕事中に「僕の最高に楽しい毎日はこれからもずっと続くのだろう、日々は瑞々しく力強く、希望に満ち溢れている。人生は山あり谷ありの愉快な大冒険だ」と心の底から、思った。もうすぐ32歳になろうともしている男がアルコールや違法薬物の類の力も借りずに平日の、しかも月曜の昼下がりにそんな事を思って万歳しそうになるだなんて、率直に言ってしまえば危ない。ええ、アブナイ。
だがそれは果たしてカフェインが(仕事中のカフェインがもたらす興奮作用は平常時の比ではない。何故だか)もたらした興奮だけではないように思える。これは僕の人生の基本スタンスと言っても良い。曰く「面白おかしく、良い意味で適当に」。
嗚呼、僕は俗だし平凡だし生活感余りある、だけれどもそんな僕の人生は僕にとって何よりも尊い、とそういう事だ。

昨夜の友人との会話。
「僕という人間が生涯の間に成す芸術的な成功について思いを馳せてみると、時に絶望的な気持ちになる。僕に才能があればもう片鱗は出ていてもおかしくないし或いは同年代でその分野で成功している人間なんて大勢いるだろう。僕はこと表現という行為においては極めて凡庸なのかもしれないと思うのだよ」
「うん」
「だけども同時にだからこそ尊い!と思う」
「ああ、わかるかも」
「天才が何の気なしに作った作品よりも僕が生涯かけて必死に努力して作り上げたものの方が僕にとっては尊い」
「うんうん」
「それは『努力する事に価値がある』とかではなくて、僕は僕以外では在り得ないからこそそこを肯定せざるを得ないという話です」
「わかったようなわからんような」
「僕はどうやったって僕という人間以外にはなり得ないのね、どうやったってそれは。生まれてから死ぬまで」
「そりゃそうだね」
「だったら僕の俗っぽさとか無能さとか、そういうのって僕が引き受けないといけないわけで、僕が僕を裏切れない以上」
「極端な物言いだけど、成程成程」
「ではもういっそのこと、認めようと。認めてあげようと。俺が評価してやらんで誰がするんだと。これはある種の諦念ね」
「うーむ」
「はい、俗。はい、凡庸。はい、無価値。だけど僕は僕である以上そんな僕を認めてあげましょう、と。で、そこを受け入れると一気に強くなったように感じる。これは根っこに僕が自己否定を絶対にしないという姿勢があるからなんだろうけれども」

かなりの暴論であり極論であるし、これが発展すると「駄目な俺でも出来るんだからお前も出来ないわけがないじゃないか」という発想になり得る危険な考え方ではあるのだけども、でも僕は自然と「自分は尊い!」と思えるような生き方をしてきた事で自分自身毎日楽しく生きていられる。
それって悪い事ではないんだネ。
今日はここまでやった、それを認めよう。じゃあ明日も頑張りましょうかね、みたいな話だ。

何だか随分と上昇志向みたいな話になった。
ここまで書いておいてナンだが、その一方僕は好きなものを好きなように食べてダラダラと遊び、よく寝た結果、お腹周りが賑やかになってきたのであった。
努力が、足りねえ!!

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