母の闘病と当たり前に毎日を送るという事。

ラジオに出たりライブハウスに遊びに行ったり好きだったラーメン屋のコピーバンドで公演を行ったりはしているものの、日々は悲喜交々だ。
入院、というか緊急搬送されてそのままICUでの闘病生活に入った母は一時期意識が回復して、聞き取りづらい声ながらやりとりが出来るようになったものの、肺に水が溜まっているとか肺の機能が低下しているとかで気道に再度送管。喉の奥に管が入っているので苦しくないようにと点滴で睡眠薬を投入され、毎日のように眠っていた。目は開いている時はあるものの、意識が朦朧としているのかこちらの呼びかけに応えるでもなく、反応もない。
病院側も気を利かせて「面会は30分までして良いですよ」と言って下さるものの、正直そんな母の様子は見ていて辛いものがあった。

それでも先日、父から『母の送管が抜けました』と報せを貰い「おお、良い感じになったじゃないか」と喜んだのも束の間、頸椎骨折の様子を診ようとMRIを撮ったところ、脳に異常所見が見受けられたとの事で父に説明があった。
曰く、脳の中に点が幾つか存在すると。脳神経外科の先生と血液内科の先生が討論したところ脳梗塞か脳にリンパ腫が転移しているかどちらかではないか、という事だ。可能性としては脳梗塞の方が高そうである、との事で血液をサラサラにする薬を点滴しているそうなのだが、当然点が癌だった場合はという説明も医者の先生から父にあった。曰く「施せる処置がない」。
つまり苦しみをとるだけの緩和ケアに入っていくという事で、もし脳の点が癌細胞だった場合は近日中に意識障害が起こる可能性が極めて高いという。
一進一退、良くなったと思ったら次の問題が起こる。次から次へと試練を与えるものだ。

送管が抜かれた母に会おうと妻と2人で面会に出掛けたのだが、母の入院以来初めて泣いてしまった。
酸素マスクをつけられ、発熱しているためか荒い呼吸を繰り返す母は目は開いているもの数ヶ月前まで元気だった母とは思えぬ程弱っているように見えたし、とてもしんどそうであったので。
いやここで参ってしまってどうする、母が一番しんどいのだと自分を奮い立たせながらズンズン歩いたのだが、数歩遅れてついてくる妻が僕の心中を察しているのは妻が無言である事からも明らかで、エレベーターに乗った時に涙腺が完全に開いてしまったのであった。

それでも日々は送らねばならない。母の体力に期待し、応援する他ないのだ。
今日は妻が娘を連れて保育園のお友達とクリスマスパーティーをする、というので思わぬ自由時間が出来た。
洗濯をし、妻に娘のクリスマスプレゼントの下見を頼まれたので栄まで地下鉄で出掛けてきた。
アクアビーズという最近流行っているらしい玩具、それのセットを求めて歩き回るも娘の所望するドンピシャのセットは店頭にはなさそうであった。インターネットで簡単に手に入るものではあるのだが、現物を見て購入したかった。仕方あるまい。
そのまま大須まで足を延ばして行きつけの中古ペダル屋を詣でた。
贔屓のブランドのペダルが中古で入荷していたので、試奏する。試奏コーナーからは師走の上前津駅近郊の交差点の様子が見え、行きかう人々を観ながらリバーブとディレイの複合機を弾く。分厚いガラスを経て往来を観ながらアンビエントな手触りを楽しんでいると、実にスッと落ち着くのであった。出音が美しいペダルは手に入れるに限る。
また触り慣れた頃に備忘録を書こうと思う。


『ドキュメント72時間』で特集されてからいつかは行ってみようと思っていた大須の屋台ラーメン『やむやむ』に行ってみた。
地図アプリでは日曜は営業していないとの事であったが、場所だけでも調べてみようと思い足を運ぶと果たして営業中なのであった。
ラーメン一杯500円。屋台のカウンター、大将の真ん前で食する。
『昔ながらの中華そば』という言葉はラーメンを表する言葉として使い古されているかもしれないけれども、まさしくこの一杯はそんな感じ。これを嫌いという人はいないんじゃないだろうか。我々がラーメンという食べ物を認識し始めた頃、その原体験に限りなく近い場所に人によっては実像を伴うかそれとも偶像なのか、そのどちらかで存在していたであろう味だ。
思わず唸った。自転車で駆け付けた壮年の男性も隣で唸り声を上げた。思わず唸るようなしみじみとした旨さだ。

家族がICUで懸命に闘病中でも、当たり前に人は腹が減るのだ。
当たり前なのだが。